あかあかと日はつれなくも秋の風

 ケイトウ、ヨウシュヤマゴボウ、コキア。庭を彩る赤。でも、あっというまに日が沈んでしまう。もうちょっと見せていてくれてもいいのに、つれないなあ。すでに稲刈りは終わり、わたる風はひんやりと冷たく、深まりゆく秋を感じさせる。


 1690年ごろというから、今から330年前の松尾芭蕉の奥の細道で詠まれた俳句だ。それだけの時代を経ても共感できるのだから面白い。場所は金沢兼六園というから、もしかしたら赤は、もみじの赤だったのかもしれない。


 風が運んでくるものは、温度だけではない。むっとした草いきれがいつのまにか乾いたにおいに変わっている。


 一条工務店のアイ・スマートに住みはじめてすぐは、せっかくの気密・断熱がもったいなからと、ハニカムシェードまで下ろして、窓を閉めて過ごしたときもあった。でも、あまりの退屈さに、すぐ窓を開けるようになった。以前過ごしていたアパートは、気密・断熱とはほど遠かったが、それでも襖絵があった。残念ながら性能とコスパ優先の家づくりでは、とてもとても襖絵や欄間にまで気にかけるゆとりはない。奥まで差し込むようになった日の光がスリットスライダーにあたって落とす影に、欄間や障子の桟のシルエットを思い出し、昔を懐かしむばかりである。


 唯一の救いは、建物の近くにシンボルツリーの植栽を配置しておいたことである。秋の風に吹かれる植栽が落とす影は、まるで部屋の中を通り抜ける風に揺られているようだ。まもなく葉が落ちれば、先のとがった冬の立ち木の姿の影を落とすようになるだろう。


 先日までの猛暑ははるか遠くの過去に飛び去り、涼しい季節もあっというまで、また窓を閉めている。気密・断熱がもったいないのではなく、もう寒いのである。ありがたく住宅の気密・断熱性能に甘えることにしている。


 でも、外気温が14℃とか表示されると、寒いのはわかっているのに、ちょっと外に出て風にあたりたくなる。そして、玄関を開けて、外に出て、ひとくさり庭を眺めて、寒い、とひとりごちながら、首を縮めて、またすぐに家にひっこんでくる。


 窓を閉め切った家に閉じこもっているより、風を肌で感じ、土のにおいをかぎ、花の移ろうさまを見た方が、やっぱり何か生きているうるおいのようなものを感じるのである。